私の『マヨネーズ』はどこにあるのか。オドネル・ケビンが私の頭を揺さぶり混ぜる。
この作品を読み終わったあと「人はマヨのみにて生きるにあらず」そう囁かれているような気持ちになったのでした。
最近、何につけても考えてしまうのが「マヨネーズ」のこと。
つけるというがキューピーだのカゴメだのそんなちゃちなものではない。
とても衝撃的な文章のことだ。
いわゆる中編小説、30分もあればさっと読めてしまうような分量。
正しくはこの作品自体ではなく、この作品によってもたらされた「実は自分の中にあった気持ち」が「マヨネーズ」として認識され、そのことばかり考えるようになった、という表現がぴったりくるかもしれない。
マヨネーズとの出会い
人それぞれの人生があるように、この世の中には様々な形の「マヨネーズ」との出会いが満ち溢れている。
私の場合は幸運にも
お前のマヨネーズはなんなのだと問いかけ続けるKDP文学の現状の到達点「マヨネーズ」:[mi]みたいもん!
というブログエントリによって、この広大なマヨネーズの海へ飛び込んだわけだ。
作者はオドネル・ケビン氏。
日本在住の米国人作家、1987年に生まれ14歳から日本語を独学で勉強し、一年の留学を経て来日、英語教師の傍ら日本語による作家を目指しているという経歴の持ち主。
マヨネーズの魅力
この作品の特徴は、なんといっても怒涛のように溢れ出す「マヨネーズ」という単語だろう。
「梅干し」という言葉で口の中に唾液があふれるように、「マヨネーズ」という単語が、あのつややかな乳白色、酸味と甘みが入り混じったようなあの香り、ぽってりとした舌触り、を想像させる。
次第に「マヨネーズ」という概念が読み手の中で揺らぎ始める。
どこからが「マヨネーズ」でどこからが「マヨネーズ」ではないのか。
そもそも「マヨネーズ」とはなんなのか…。
そのあたりで一つの事実に気が付くはずだ。
目に見えるもの手に取れるもの全てを「マヨネーズ」という単語に置き換えることによって、目には見えない、もっと大切な物を感じさせてくれるということに。
それは作中何度も出てくる「自分にあったマヨネーズ」という言葉で表現されている。
もちろん食品としての「マヨネーズ」と解釈しても、文意としては破綻しない、しかしそれが冷蔵庫に入ったアレでないことは読んだ方には明白だろう。
現実と妄想を混ぜ合わせるもの
ちょうどそのままでは混ざらない油と卵をビネガーが間を取り持ってマヨネーズにするように、この「マヨネーズ」という作品が分離しているた現実と妄想を混ぜ合わせてくれるような、そんな感覚。
「マヨネーズ」を通していつしか自分の心と対話しはじめる驚き。
少なくともこれは、映画でもマンガでも絵本でもなく、小説というカタチでしか表現できない。それは間違いないと思う。
それはとても素晴らしいことで、だけどちょっと嫉妬してしまった。
さて、あなたの「マヨネーズ」はどこですか?
Kindleの本はアプリでも読めるけど、ちょっとKindle欲しくなった。
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マヨネーズの探究者タムカイ(@切り抜きジャック)でした。