すばらしい「先生」の条件は「教えない」ことである
ここしばらく考えていました。
かつて教師であった父親と違い、自分は「教育」という分野に関わらず生きているな、と思っていたのですが
気づけば社会人生活もそれなりに続き、自分も先輩として人を指導したりする立場に。
以前こんなエントリを書きました。
『みんなのイチ推しブログ選手権』に思うこれからの教育と学び。 #oshi_blog | 切り抜きジャック
教えるのは必ずしも職業としての「教師」である必要はない …
教えるのは必ずしも職業としての「教師」である必要はない
まさにその通り、自分も教える立場になっていたのです。
自分は「先輩」であって「教師」ではない
しかし、やはり私は「教師」ではありません。
いわゆる「先輩」すなわち「先をいく輩」という存在です。
この読み読み替えを使うと「先生」もすなわち「先を生きるもの」となります。
私の持論では「先に生まれたもの」ではありません。
この解釈はどこかで見たことがある気がするので、私オリジナルでは無いのですが
ここにヒントがあると感じました。
すばらしい「先生」は「教える」だけではない
乱暴な言い方をすれば、よくも悪くも教えれば「教師」です。
教えるのが下手な人も、上手な人もいます。
ただ「先生」や「先輩」はちょっと違います。
生徒・後輩に「学ぼう」と感じさせられるかどうか
もちろん「教える」という行為は大切ですが
「先生」「先輩」がすばらしいかすばらしくないを決めるのは
あとに続く人たち(生徒・後輩)が「自分もあんな風になりたいので学ぼう!」
と感じられるかどうかかな、と思った次第。
そう考えると自分にとって良かったなと思える「先輩・先生」が思い浮かびますし
自分もそういう存在でありたいな、と思ったのでした。
今回のワシヅカミポイントは
- 誰もがどこかで「教育」に関わっている
- 自らが「先輩」や「先生」になっていることを意識する
- 「教える」のではなく「学びたい」と思わせることが大事
の3つ。
そういう意味で言うと「あんな風にだけはなりたくない!」という意味での「反面教師」って
ある意味ものすごい「先生」なんだけど、そうはなりたくありません><
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